ぜんそくジャーナル
153号ジャーナル
アトピー性疾患その特徴と根治療法
【手記】我が闘病記~Mさん
喘息と は約40年という長い年月を、それなりの折合いを付けて、常時自分の影の様な存在として付き合って来ました。しかし今度、私の「竹馬の友」は大反逆を巻き起し、私にキバをむいて襲いかかってきたのでした。
それは忘れられない平成8年の10月のことでした。翌年の四月よりの消費税率引き上げに備え、ご多分に漏れず建設業界においてもかけ込み特需で盛況を極め、寸分を惜しむかのようにガムシャラに仕事に精をだし、休日も返上し、舞い込んでくる仕事依頼にも顔をしかめ「仕事…仕事なんか要らん。少しゆっくり休ませてくれよ。」と不満が口をついて出る程に精魂尽き果てた感がありました。(今日では不遜な言葉ですが)。
秋風の吹く10月中頃より調子を崩し始め、それまで常時愛用し効果的だったベロテックも効かなくなり、かかりつけの開業医で点滴をうけるのも頻繁になり、ステロイド(リンデロン)の服用を勧められ、量を増すが喘息の勢いは衰えの兆候もみせず、医者も手の尽し様がなくなったのか、サジを投げられた格好で近くの病院に入院治療を勧められました。
その時すでに晩秋を向かえる平成8年11月中頃でした。そこから私の今日までの喜劇のような悲劇が始まるのでした。
そもそも私と喘息とは、母から聞くところによると2才頃から症状が表れていたようで、寝入りばなや明方近くに「ヒューヒュー」と喘鳴をだしていたらしく、それも目が覚めしばらく時をおくと治まる程度のものでした。家族も周囲も「小児ゼンソクは自然治癒しやすいものだ、心配は要らない」と楽観していました。
小学、中学と学年を重ねるにつれ私自身も喘息に神経過敏になりだし、自分でこっそり薬局で塩酸エフェドリン錠剤や、大正製薬からでていた「喘息トンプク」を買うようになり、発作がおきては言うまでもなく、おこりそうだなと予感がすると隠れるように服用して処置していました。今から思うとすでにこの頃には体のバランスの乱れだけでなく、心因も関与しだしていたのです。
そして高校時代には大学受験を控えた冬に意識を失う程の大発作に見舞われ、入退院を繰返すまでになっていました。今から考えるとこの時すでに喘息の原因の四要素(体・心・アレルギー・感染)すべてに起因して発作はおこるまでになっていたようです。
しかしこれ程の辛酸を味わったにも拘わらず事の重大性に気づかずなやむこともありませんでした。
もともと我家の家系は喘息持ちがいたし、これは隔世遺伝とも言われるし、「小児ゼンソクは治る」からの格言からもはみだしたけれどもそれなりの対症療法で乗り切れるのだからと楽観的な持論を決めこんでいました。
そして大学に入学すると同時に、喘息をなおす為ではなく、これまでのなまっていた体を動かし発散できるスポーツがしたい、それもズブの素人でも容易に出来るスポーツはと考え同好会系の山のクラブに入会しました。同好会とは言え歴史と実績がある会らしく四季を通じ1年の100日以上を山で過すハードなものでしたが今から振り返ると心身共に鍛えられ仲間と過す苦しくも楽しい貴重な体験を得ることができました。山に入って発作をおこすことはなく下界で季節の変り目に軽くおこる程度でかなり軽快したものだと周囲も喜んでくれていました。
卒業とともに、サラリーマン生活に魅力を感じず(成績も良くなかったこともあるが)何のためらいもなく家業に就きこの業会に生来合っていたのか今回まで順風満帆?とまではいきませんが無事家族と共に自営業を営んできました。その間今日までひどい発作もなく予防薬としてインタール、軽い発作(特に明方)の際はメジヘラ、ベロテックでそれなりの折合がつけられ、喘息に対しそれ以上の認識を深める気もおこりませんでした。
しかし今回喘息に関するその無知、不勉強、その恐ろしさの認識欠如が私たちの平凡な家庭を大きくゆさぶってしまったのです。
例年1年を通じ最も忙しく最盛期を迎える年末を控え、入院していても一向に快方に向う気配はなく、気は次第に焦りの一途をたどり、病院を無断で抜け出して仕事にでかけ、症状を一層悪化させるといった地に足のつかないドロ沼の状況を続け、1週間の入院を三回繰返しました。「今は仕事が第一だ。お客様に迷惑はかけられない。自分でしか出来ない、解らないことが多く人頼みにはできない。喘息は正月の元旦からでも入院し1月の15日位までに治せばいい」といった自分に都合のよいシナリオを練りあげ、点滴して少しおさまればその足で現場へ向うといったでたらめな行動の結果の末ついにクリスマスの12月25日に大発作をおこし夜間父に連れられ幾たび目かの入院となりました。以前よりみるにみかねた家族の執ような注意を無視した末の至極当然の結末でした。久徳クリニックでよく言われる「何んでも自分が、自分が」という「思い込んだら命がけ」といった私の性格の一面が裏目にでたわけです。
さすがにここまでくれば観念せざるを得ず、薬の名前、その薬効、副作用の基礎知識も持たないまま、全面的に、病院に治療を一任したわけです。来る日も来る日もステロイドの点滴、1日6錠のプレドニンの連用の効果も一向に表われず、スッキリしないがまあこんなものか、あとは家で静養すればいいか。仕事が忙しく疲れたもんな今年は、と勝手な納得を自分に押しつけ、10日間程で呼吸器系で評判のいい町医者に変わるが全く軽快せず、次第に精神的うつ状態に落ち込んでいきました。
幾たび目かのいつもの病院に平成9年2月8日再入院する羽目となりました。おかしい、いつもならすでに元に戻っているはずなのにどうして今回に限って治らないのか…?不安、焦躁、そして絶望感すらいだきはじめていました。ステロイドの連用による副作用は次第にそして確実に出現しはじめていました。ムーンフェイス、下腹膨満、ニキビ、毛深さ、不眠、不安…etc、ステロイドがひきおこす副作用がすべて出尽くしたかのような哀れな身成りに成り果てていたのです。
担当医は只自信なさげに専門書からの喘息治療マニュアル本のコピーを私にさし出し、自分は誤った治療はとっていないと言いたげに説明(言い訳)をしだしました。そして「私は本来肺ガンが専門で喘息治療はここ2、3年の経験しかないのです。少し気分が良くなったら退院しなさい。喘息は完治しない病気だから症状がよければ無理をせず仕事を再開しなさい。」「ステロイドはどうすれば止められるのですか?急に中止するとリバウンドをおこす場合があると本に載っていますが?」「止めなさい。いつまでものんでいると体がボロボロになるよ。リバウンド?心配なら少しずつ減らしなさい。発作がおこればまた増やして服用するしか仕方ないなあ。しょうがないでしょ。あなたのは非常に治りにくい珍しいケースだ」返ってくる返答はただ哀れ地獄につき落とされるような非情な言葉だったのです。
無責任な…。こんな体にしたのはお前にも責任があるじゃないか…。と言い迫りたい程のこみあげてくる怒りと悔しさ…。そういった気持がいやされないまま3月から4月にかけて1ヶ月半程外出することもなく家の中で魂を吸い取られたかのようにボー然と無気力な状態で過ごす日々が続き、家族も心配で浮足立ち、世間から聞いてきた様々な民間療法にかけるしかないかのように、30万円もする健康電子ブトンを飛びつくかのように購入してみたり、どこそこの漢方薬が効くと早々に注文してみたりと的外れな事ばかりして、家のリズムはすっかり乱れてしまっていました。
その頃ふと妻が近所の方から以前聞いていたことを思いだしました。それは名古屋に久徳クリニックという喘息専門の病院があり、全国から難治性の患者が来られよくなっておられるとのことでした。
もうそこしかないとばかりに、ワラにもすがる思いで平成9年5月1日に来院し、院長先生より1時間にわたってこん切ていねいに診察、喘息の仕組を説明いただき5月20日に学習入院させていただきました。治療の課題としてステロイド離脱、副腎機能回復、心の弱さ、体のバランスの乱れの修正を私のゼンソク根治の課題と指摘していただきました。
すでにその時点でこれまでに点滴外にプレドニン錠剤を4500mg服用していて、副作用の表われる基準の2.5倍に達していました。「安静の害」という考え方に基づく活動的な1日のカリキュラム、そして厳しく執ような心のカウンセリングなど、心と体のタンレンをバネに根治の軌道のレールに私を導こうとしていただいた先生方のご努力のかいあって、ステロイド離脱は約2週間、眠っていた副腎機能も約3週間後の2回目の検査結果で完全ではないが驚くほどの回復ぶりの数値があらわれました。
「明日からステロイドきるゾ!何を恐がっているんだM君。君は今病院に居るんだゾ。発作なんか恐れていてはなおらんゾ。大丈夫だヨ。」というこの力強い自信に満ちた言葉に私は救われたのです。薬に勝る力強いこの言葉が何にも勝る薬として私を救ったのです。
これまでの医師はただオロオロするばかりで、えらい患者をあずかったものだと言いたげな表情で、サジを投げていたのが、経験に裏づけされた自信に満ちた先生の一言が闇をさまよう私に光明を与えてくれたのです。医者とは本質的にこうあらねばならないと痛感しました。
入院中は大量のステロイドの弊害からか、排痰の未熟さからか、助骨を2本折るヘマをしでかしましたが無事40日余りで退院することが出来ました。
久徳クリニック退院まではこれまでに経験したことのないつらく厳しい10ヶ月余りでしたが「時は金なり」とばかりに脇目もふれず仕事一辺等で遊び心もいつしかどこかに置き忘れ、心のゆとりも失ない、ブレーキの効かない暴走する車のように、いつか確実に悲劇の結末をむかえる運命にある者を早目に本来有るべき姿に気づき、今後の人生へ取組む姿勢を修正する機会を神はお与えくださったものと考え、今は出来るだけ世間の速い時間の流れの中で自分を見失うことなく、自分流の時間の流れに少しでも変換する努力をし、心にゆとりと豊かさを兼ね備えられるよう努めていきたいと思います。
退院の際先生よりゼンソク根治への課題の7割は薬と体のタンレンによって解決できた。しかし残りの3割は難問で解決は容易ではないよ。本質を常に見失うことなく頑張りなさい。と厳しくも心からの励げましのご忠告をちょうだいしました。
私は今回遠路名古屋久徳クリニックまで来て幸いにも救われ、改めてゼンソク根治への決意をするとともに、人生への取組の転換期に確かな道標を手に入れることができました。これもひとえに久徳クリニック先生方、看護婦さん他スタッフ一同の方々のお陰と心より感謝申し上げます。未だゼンソク根治への緒についたばかりの未熟者ですが今後共アフターケアーを含めご指導宜しくお願いします。