ぜんそくジャーナル

 

126号ジャーナル

【手記】私の学習入院体験記   福岡県久留米市 会社員 Kさん 35才

 
私の喘息発症は26才の11月です。カゼをこじらせて咳が一日中止まらなくなり呼吸が苦しく、壁に背をもたれて起座位で寝ることが半年近く続きました。病院では肺炎との診断でしたが、結婚に伴う転居と同時に症状は治まりました。その後、春・秋の明け方に喘鳴がおこり起座位で過すようなことか数年間続きましたが、2~3日で治まっていました。それが、仕事が多忙になった31才の11月、長びくカゼを引きずっての仕事中の夕方6時頃から喘鳴とともに呼吸が苦しくなり、治まる気配がないので夜11時頃に近くの病院に駆 け込みましたところ、「感染型の喘息」とのことでそのまま1週間の入院となりました。 (余談ですが、薬師丸ひろ子主演の映画「病院へ行こう」の舞台になった病院なんです)
 
翌年九州に転勤し、地方の医大の研究室に出向いたしましたが、その11月、激しい咳が2週間程続いた後の深夜2時頃に大発作を起こし、仕事先の医大病院に駆け込みそのまま1週聞入院いたしました。担当した医師の話では「開院して以来初めて見る大発作でした。来院が遅かったら生命を落としていたかもしれません。次からは決して発作を我慢せずに早目に来て下さい。」とのことで、この時初めて自分の病気の重驚さに気付きました。

その後、毎朝4~6時頃には必ず、日中でも、情著変化、気温の変化、雨の前、軽い運動、長時間の会話や車の運転、薬品臭等で年中発作が起こるようになり、慢性化し、薬漬けの生活となってしまいました。月に1~2回の頻度で昼夜を問わず、ネオフィリンやステロイドの静注を受けるようになりました。この頃から、発作時に吸う息が苦しいことを認知するようになりました。
 
病苦と仕事のストレスが重なり、かなり精神的に落ち込むようになり「このままではとても今の仕事で家族を養っては行けない。転職するにもこの調子ではどこも雇ってはくれまい。この先どうなるんだろう。いっそ大発作で死んだ方が余程楽に違いない。」とまで思い込むことがありました。それでも心配してくれる妻や可愛い子供達のことを思うと「何とか頑張らなければ」と思い、医大図書館にある専門書や書店にある一般書を読みあさりましたが、どれも「科学的に未解明の難病で死ぬまで薬でコントロールしてゆくしかない。」との主旨の本ばかりでした。良いと思われることは片っ端から試してみましたが、どうも良くありません。そのような折に偶然、久徳先生の「自分で治せる喘息根治療法」という本にめぐり合いました。「喘息は治せる病気だ」と断言してありました。何度も繰り返し読みました。一般に分かり易く書かれておりましたが「これはひょっとしたらすごい学説かもしれないと思いました。私は医者ではありませんが、最近5年間程基礎医学の研究に携わっておりましたので、一応科学者のはしくれとして、研究仲間が良く言うところの「本物に触れた直感」を得たのです。
 
早速、自分ながらの原因分析をし、「心」と「身体」に焦点をあてての鍛練を始めました。しかしながら2~3ヶ月続けた鍛練は、病状の軽快や仕事の忙しさが極まるとともに、さらに寒い季節に入るにつれてサボリがちになり、とうとう「心」は「人生苦ばかり楽はなし」の後向きに、そして「身体」は不規則な生活の中で気安め程度の「朝夕の乾布まさつ」のみという状態となってしまいました。私の場合、「心」に50%、そして時間にルーズさが許されて不規則極まる大学の研究生活の「身体」に50%の原因を見出しておりました。それで鍛練の挫折にも拘わらず、その時抱え込んでいた「大仕事」が終わって会社勤務に戻れば、複雑に絡み合いこじれた人間関係によるストレスも消え、さらには生活も規則正しくなり病状もかなり回復するに違いないと見込んでいました。そして昨年末より会社復帰し元気よく新生活に臨んだのも束の間、元日から調子を崩しプレドニンを一日に10~15mg服用しても効果なく、ついには7日目に中発作を起こして近くの病院でステロイドを静注するに至り、回復の予想が狂い大いに焦ってしまいました。そこで根治のための「原因分析」「対策」「実行」のやり方を再考する目的で、2月1日からおよそ2週間「学習入院」をお願いすることになりました。
 
この2週間の「学習入院」はとても価値のあるものとなりました。そのうちの主な事柄を次のようにまとめてみました
 
①総合根本療法で私の喘息は治ると確信できました。
②先生方とのカウンセリングを通じて、私の原因は「身体」よりも「心の図太さ不足」によりウェイトがあることがわかりました。
③「心因」の性格が明確になりこれまで気付かなかった「心因」までも浮き彫りにされました。これは「先生方とのカウンセリング」や「入院している方々の観察」と、主に「外来見学」によるものです。この「外来見学」は、通院されて来る患者さん方の診療を見学するシステムで、これによって「自分と同じような患者さん」から、客観的に自分の原因を発見できるのです。
④先生方から、「心」をたくましくするための「励ましの言葉」、をたくさん頂きました。古くから「言葉」には魂がこもると言われますが、私自身にピッタリの「処生訓」は生涯大切にしたいと思いますし、お陰で随分心強くなりました。
⑤「身体」については、私は、はっきり鍛練不足が原因となっています。頭ではわかっていても中々実行できないのが私の弱点でした。入院当日は小雪舞う日でしたが、暖房を一切使わない病棟生活にも拘わらず、入院されている皆様は一様に薄着で、生来寒がりの私は正直に言って「こりゃえらいことになった。入院中に大発作出してしまうかもしれない。」と不安でした。点滴やりなから鍛練をやっている患者さんもいる。なのに皆さん冗談とばしてゲタゲタ笑いながらやっている。本当にびっくりしました。自分より症状の重い方々が、それもかなりのご年輩の方までもやられているのだからと思い、少しずつ頑張ってみました。驚いたことに1週間もたたないうちに、素足訓練から徐々に寒さに慣れ、早朝のバケツ5杯の冷水浴までやれるようになったのです。これまで発作を出すのが嫌で控えていたなわとびや軽いジョギング程度の運動も気軽にやれるようになり、運動時の気管支収縮も軽くなって、ベロテックの吸入も一度も使わなくてすみました。「赤信号みんなで渡れば恐くない」の心理なんですね、これはきっと。私の一番恐れる朝の水かぶりがやれるようになったから、もうどんな鍛練でもやれる。そんな自信がつきました。その自信が心の図太さを生み、気分転換にも通じてゆくと思います。
⑥排たん法は、やはり本を読むのと実際にやるのとでは大違いでした。実地訓練を受けるのが一番でした。
⑦みんなが頑張っているという連帯感は大きな収穫です。毎朝・毎夕、「ああ今頃、畑口さんも、柏野さんも、稲垣さんも、今村君も、長谷川君も、みんな鍛練やってるだろうなあ」という思いは、継続の意欲を生んでくれます。励みになります。
⑧外来見学の中で、多くの心の悩みを抱えている子を持つ父兄の方々を知りました。その方々を診る先生方の「まごころ」を強く感じました。先生方がご両親の非についてご指摘なさる点の多くが自分にも思いあたり胸の傷む思いをいたしました。私の妻や子に申し訳なさ一杯です。
⑨いくつかの病院を転々といたしましたが、ここは格別に看護婦さんが元気に溢れて活発で、厳しくも優しく、そして何よりも若手の方々が「美人」揃いで、一緒にいるだけで心なごむものがありました。男性の皆さん、一度いらしてみませんか。
 
退院してもまだまだ発作を出して「こける」と思います。でも、「小ごけ」「中ごけ」は自力で乗りこえれるように思います。もし、「大ごけ」してしまったら、また名古屋まできて「原因」と「対策」を考え直すつもりです。

それにしても心に主因を置く難しい病気ばかりに敢然として立ち向かわれている「久徳クリニック」の諸先生方には頭が下がるばかりです。今の学校教育は、成績が良いからとか、社会的に地位の高い職業だからという理由で、いい大学に、そして医学ではなく医学部を目指させられ、医師免許をとったら医の仁を握かむことなく居丈高に医療に携わってしまうような者を輩出しているように感じます。このような時世に、心と身体の両面から、使命感をもって真剣に医療に取り組んでいらっしゃる方は数少ないと思います。その中でもとりわけ情熱的な先生方のいらっしゃる「久徳クリニック」にめぐり合えて、私は幸運でした。後継者の先生方が続々と登場されて、文明社会を支えて下さることを切に願います。諸先生方、看護婦さん、同期の患者さんの皆様、本当にどうもありがとうございました。私、九州で頑張ってますので皆さんもどうか頑張って「人生楽しく生きなきゃ損」で気持ち良く天寿を全うしましょう。