ぜんそくジャーナル

 

136号ジャーナル

第8回喘息根治の会 体験談①  「私のぜんそく征服法」徳島市 Tさん   


皆さん、こんにちは、私は、まだこの会に入って二回目ですけれども、体験発表をさせていただきましてありがとうございます。
 
私は、物心つかない時から現在57歳ですけれども喘息とともに生活しております。私が、喘息になったのは、大腸カタルで体が弱った時に、百日咳を患いまして、それが原因だったと親から聞いております。女の兄弟が4人おりますけれど、一人息子でありましたので、お婆ちゃんが非常に喜んで大事にして、嫁である母が私のことについてひと一倍敏感になっていたんではないかと思います。小さい時、朝鮮の方におりました。寒さも厳しいんですがこんなことを覚えております。朝起きましたら、さっと母が、かかえてストーブのそばに連れていって、そこで服を着せると、万事がそういうような状態であったと思います。で、少年時代ですか、小学校5年生ぐらいの時に、こちらに引き揚げて参りまして、まあ、両親とも一生懸命、戦後の混乱の中を働いておりまして、ほったらかしにされますので、喘息を起こすと私の方に向いてくれます。やっぱり、そういう気持ちが、どっかにあったんでしょう。わざと喉をゼェーと鳴らしてみて、「お母さん、喘息が起こってる」と言った経験があります。
 
苦しさのあまり、戸棚をガタガタやりまして、戸棚の戸を外してしまったこともあります。この頃の喘息は、春と秋、いわゆる季節の変わり目に起こしまして、起こると1週間ぐらいおさまりません。1週間ぐらいたちますと自然と治ってきました。体力が非常におとろえますので、後、2週間ぐらい体力回復に使いますので、だいたい、2週間とか3週間、学校を休んでおりました。高校時代は、演劇部にはいっておりましたので、演劇コンクールなどがある時には、よる11時ぐらいまで夢中になってやるわけです。その時、喘息は、全く起こらないのです。終わったとたんに、毎年喘息を起こしておりました。この頃、注射が、比較的今に比べて、自由に手に入ったんでしょうか、自分で注射をしていました。静脈注射は、ネオフィリンを、よく使っていたようです。それから、劇薬のエピレナミン、アドレナリンとかを、使用していました。そういう状態が大学まで続きまして大学の時にも、演劇研究会に入っていまして、私は、東京に住むことになったわけですけれども研究で神経をすり減らしていたことと、体力がなくなったのか、ネオフィリンを自分で注射している間に意識を失いまして、気がついたのが次の日の午後ぐらいです。
 
東京の日赤病院に入院させられておりました。体力回復と精神的なものが安定したのでしょうか一応おさまりまして、その時に、顔が、こんなにふくらんでまして家の方が最初誰だか分からなかったと。恐らくこれは、ステロイドに寄るムーンフェイスだったんではないかと覚えております。ですから、そんな状態で、大学は過ごしました。大学生の頃に、久徳先生の母原病の話しを聞いたのだと思いこますが、やはり親が悪いんだと、親のせいにしていました。何かというと、恨み、つらみを親にぶっつけていました。そのために、親から離れて生活していかなければいけない。また、東京にいたのでは、空気が良くない。そういう様な理由で一人息子で、わがままを言ってきたけれども、「今度も、わがままを許してくれ」ということで、徳島の方へ就職しました。それが昭和38年で、親元を離れて徳島の祖谷(いや)という所へ赴任をしまして、のんびりとマイペースでやっておりましたので、その頃に、ひどい発作を起こしたという記録がないのです。エフェドリンぐらいで4年間、祖谷という所で生活しました。
 
ところが、移動で徳島市にでてきました。街中でいろいろと神経を使い、体力も使って、それが原因だったんじゃないかと思いますけれども、たびたび、調子が悪くなりまして、娘と息子がおりますけれども、やはり、喘息気味で、かかっておりました、小児科の医者にかかりました所、今考えたら、ステロイドだったと思うのですけど、よく効く薬だと言うんで、それをずっと7~8年近く、久徳クリニックには喘散という薬がありますが、それを使うような感じで、その薬を使ってきたと思います。当然、副腎のホルモンの分泌が悪くなっていったわけです。
昭和60年に組合の役員をしまして、その時にまた、ひどい発作を起こしまして、入院をしました。その前に、徳島大学で胃の検査をやったんですけども、その時に、胃壁から血がすぐ出ると、細胞を採取しょうとすると血がすぐ出ると言われ、これは何か飲んでる薬が原因なんじゃないかと言うんで、私が常用して薬を持っていったら、「これを飲んでいたらそういう風になるぞ」と言われた記憶があります。入院先のお医者さんは、「ステロイドを使いますよ」と。使い方は、ぱっと使って、さっとやめるということで使ってくれたんですけども、2回3回入院してるうちにステロイドの離脱ができなくなったんです。医者も、呼吸困難で窒息死でもされたら困るということで、お医者さんが、私に「どうしたらいいんだろうね」と聞くわけですね。「どうしたらいいんだろうね」と聞かれても私も本当に困りまして、その時に母親が、重盛先生の本を送ってくれていたんです、実は。
 
しかし、分かって、読んで、なるほどなあ、本当にその通りだと思ってながらもですね。なかなかふんぎりというか、自分の生活から、性格まで変えなければいけない。これはと思うような気持ちがあったんですけどもそのステロイドが離脱できないと言われた時には、さすがに、久徳先生に長いお手紙を書きました。そして、お電話もして御相談申し上げて、そして61年にかかるように言われて、徳島の病院に、入院したまま、外泊許可を頂いて、1週間学習入院をしました。今まで、ステロイドの注射をしていなければいけなかった体が、久徳クリニックに入院したその日から何も、治療も何もない。とにかく学習入院ですからそれで、普通に生活できる。もう本当に奇跡の様な感じでした。1週間ぐらい入院させて頂きまして、そして、当時娘が愛知の方の大学におりまして、帰らしてもらう過程として、ちょっと外泊してみようということで娘の所に2、3日外泊しました。
名古屋で映画など見ながら過ごしましたが、別段何ともないんですね。「じゃあもう戻ってもいい」ということで、それ以来、ステロイド、昭和61年から完全に離脱できました。冷水浴をやりましたら1ヶ月で、風邪引きましてですね、あまり無理するなということで、私なりに冷水浴をしました。それで、入院した時に測定して頂いた副腎皮質ホルモンの分泌が次に検査して頂いた時にはほぼ正常値に戻っておりました。ただ、あの検査すると、分泌が二段階にあがるのが、私の場合あがらなかった、今だにあがらないんですけども、とにかく、先生にギリギリ正常値になったなと言われるぐらいに戻りました。その前までは、風呂に入るのがこわかった。お風呂に入ってそのままにしておいたらすぐ風邪ひく。お風呂に入ると夏でも体が乾くまで毛布か何かで、じっとしていまして、体が乾いてから洋服を着るというような事をしないとすぐ風邪を引きました。
 
やはり、生活を根本的に変えなければいけないと、そのためにはということで、平成4年に仕事をやめまして、しはらく、心身ともにリラックスした状態でおったわけですけども、造園の方の通信教育を受けておりまして、緑とか植物というのは、人間にとって大切なものでプラスになると思っていました。だけれども、50歳以上になって雇ってくれる所は、どこもないんですね。ですけども、中ぐらいの造園会社ですけども、まあ雇って頂きまして、平成4年の10月から造園業をさせてもらいながらやっております。
 
今年、庭園管理の国家試験があったんで、「挑戦してみな」と周りが言うもんですから、この8月試験に挑戦しました。学科の方は、いけると思いますけれど実技が、ちょっとダメじゃないかと私は思っております。それはもう非常に暑い夏のさかりですから、大変な目に合いました。ふだん働いている時に大変な目に合っていないわけではないのですけれど、本当に自分の体力の極限を使ったような作業でしたが、これを、無事こなすことができました。現在まだ、完全に治ったというわけではないですけれど、昔の私を知ってる人から見たら、色の黒さから、前向きの生活から見ても「おかしいわね、ウソを言っとったんではないか」と言われるぐらい皆から変わったとも言われるわけですけれども、やはり自分としましては、喘散を頂いて、かたや過激な、過重な労働をしますと、やっぱり軽く出てきますし、これは、副腎のせいではないかと思います。
 
それから精神面の方もまだまだ、強化していかなくてはいけないと思いますし、それから、若い頃から肺を痛めておりましたので、大分前から肺気腫といわれていまして、末端の方に、たまっている痰が、どうしても出てこないということで、現在まだ、喘散や、ソリタを使っています。現在、まだまだですけれども将来必ず、生きている内に治す、治してやろうと思いながら生活している私でございます。長いこと聞いて頂いてありがとうございました。

これで終わります。
貴重な体験談をありがとうございました。紙面の都合で多少短くさせて頂きました。