ぜんそくジャーナル

 

148号ジャーナル

症例

 

本当に困った難治例

今まで私は、喘息研究を始めて25年間の間に、約5万人の喘息を診ました。その間どうしてよいか分からないというほど本当に困った症例は、それほど多いわけではありません。0.7%に相当する難治の症例も、われわれ専門医にはほとんど全て、「こうすれば治る」ということは分かっていることが多いものなのです。しかし中には最後まで原因がわからず本当に困ったという例もないわけではありません。
このUさんの例は、最後の決め手となる原因が発見できなくて、昭和48年、私が愛知医大在任中に初診し(当時53歳)、昭和58年、Uさんが63歳になるまで全治させるのに実に10年の月日を費やした症例です。
 

Uさんの喘息遍歴

Uさんの家は農家で、25歳で結婚するまで祖母に育てられました。Uさんが52歳の時、長男が結婚しました。すごく内気なUさんは長男の嫁と折りが合わず、長男の結婚後数ヶ月で喘息が発病しているのです。そしてその年(昭和48年)、愛知医大内科から依頼され、私が治療することになったのです。ところが昭和56年に至る8年間、だらだら続いた喘息発作が全く治らないのです。昭和54年、久徳クリニックに初診したあとのカルテを見直してみると、「気楽な生活ができる家庭」「生甲斐を見つけよう」などという主旨のことがしばしば記載してあります。そして昭和56年になってしまったのです。
私はそれまでにも幾度か入院を勧めました。しかしそのたびに返ってくる答は、いつも「いえ、結構です」というものでした。しかし久徳クリニックにかかり始めて丁度2年たった昭和56年10月、遂にUさんは入院してくれることになりました。

ところが、クリニックに入院しても、喘息発作はなかなか消えないのです。そればかりではなく、Uさんは全く元気がなく、手足や顔などに浮腫まで現れてくるようになってしまいました。喘息で手足や顔に浮腫が現れるなどということは、想像できないことなのです。
そこで、その原因を調べるため、愛知医大の内科に入院して検査をしましたが、結果は心臓も腎臓も正常で、喘息以外にはやはり身体的にはどこにも異常がなかったのです。そしてUさんは数日後、また久徳クリニックにもどって来ましたが、喘息発作は相変わらず毎日続き、しかもいい忘れましたが、しばしば感染も繰り返していました。

生甲斐を感じ、イキイキした生活をしてくれれば、治る可能性は十分にある。そこまでは分かっているのですが、彼女がなぜその気になってくれないのか全く分からないのです。私自身、途方に暮れ、東京か九州の喘息専門医の仲間に助けを求めようかとさえ考えるほど追い込まれてしまいました。
そんなある日、Uさんが入院して1ヶ月くらいたった頃、クリニックの温室でオリヅルランの枯葉を取りながら、Uさんはぽつりと「私は結婚以来35年、少しも幸福ではないのです。」と言ったのです。

Uさんの家庭は恵まれた家庭で、「夫は患者に対して過保護」とケースワーカーの報告にも書いてあるような家庭なのです。
「だって幸せな家庭のはずですよ。なぜ不幸なの。」「夫は私のいうことを聞いてくれません。映画に行きたいといっても一緒に行ってくれません。」「それ以外に不満なことはないの。」「ええ、それだけです。」
私はすぐその場でUさんの御主人に電話をして事情を話し、御主人からUさんに電話をして、映画に誘ってくれるように頼みました。「そんなことは簡単です。」それが御主人の答えです。
それから2回、Uさんは夫に誘われて、名古屋城の菊人形の見物と映画見物に行きました。夫に誘われて菊人形を見物に行った日から急速にUさんの喘息発作は出なくなり、1週間後には退院できるようになってしまったのです。入院後55日目のことです。

それから10ヶ月あまり、Uさんが時々軽い発作がありましたが、町内会の役員などもするようになり、約1年半のアフターケアを含め、退院後2年たった昭和59年3月には完全といってよい状態で完治してしまいました。Uさんの10年にわたる、そして私のとっても実に長かった喘息遍歴が終わったのです。