ぜんそくジャーナル

 

152号ジャーナル

【手記】「退院を前にして」       Uさん    

 
「ジャーナルにのせてあげるから、入院して思った事、何でもいいから書いて。」と重先生にいわれて、もともと書くことがキライではない私は、適当に書いてみようと思い退院を前にして筆をとっています。
 
96年12月16日、めちゃくちゃ寒い中、入院したのを覚えています。「入院する」といっても、私は外来に一度も通った事もなく、おばが前に喘息で入院していて、登校拒否の子も大勢入院しているからUちゃんも行ってみれは?の一言で、長崎でひまをもてあましていた私は、「まあ、うざったい親からはなれられるし、受験勉強もすましていることだし、二週間ぐらいゴロゴロして、ボーッとしとこう。」と軽く考え、軽いノリで入院しました。
 
ところが久徳へ来て頭がパニックになりました。私の想像と全く違う。ちがいすぎ!!テレビはない、食事はまずい、昼間は寝てはならない…。毎晩泣きました。何の自由もないおかしな国へ来てしまったと後悔し、帰りたいと母に泣きつきましたが、母は三日後仕事で長崎へ帰りました。
その時は、とにかく母が私をおきざりにして帰った事が頭にきて、物にあたり、病棟スケジュールを守らず、反抗しまくりましたが、重先生はとくに冷静で「君のわがままは聞けない。」といわれました。
 
その時、「このバカ達をどうやってあつかおう?手っとり早い方法は?」と自分なりに考えた答えが早く退院するため、いう事をだまって聞いて見かけだけやっていれば…と思いました。もうその時はわかままし放題の私。世界は自分のためだけに回っているとでも思ってたのでしょう。私にさからえる人はいないと思っていたのです。
 
今は本当に半年前の事ですが、バカは私だと笑っていえるぐらい、普通人(?)に成長したと思い、前の私は本当に何様だ?と 思いよくCW(ケースワーカー)さんと話しています。(笑)
そして、二週間がすぎ、マクドナルドでバイトをする事になりました。まあ、私の事だからバイトぐらいなんなくこなせるだ ろうの、またまた軽いノリがくずれました。二日行きましたが、一日目、過呼吸で倒れ、二日目、人が怖くなって早退。帰ってすぐカウンセリングルームであばれまくった様です。(その時の事はもう苦しくておぼえていない。)そうですよね。、長崎でバスに乗るのも怖くて、人に会うのも怖くて最終的には学校を退め、バスの中でも常に「このバスが爆発して、みんな死ねばいいのにな。」とおかしな事を考えていたやつが見かけだけでもうまく行くはずない。その時初めて、自分の実力不足に気付きました。でも頑固なため、それを認めたくない私…。先生と廻診の時私はガムシャラにケンカごしに話していました。
 
そしてマクドナルドの後、外来の手伝い→喫茶店→コンビニと色々とこたごたありながらも職が変わるごとにもまれて、ムカッとしながらもやる事はやるといういいくせがついてきて、過呼吸も自分で止められる様になり、今では出なくなって、回転勝負のファミリーレストランで二ヶ月間、別に何事もなく、平日の昼間に入るのでパートのおばさん達にもまれながらも上手くやって行けたのでそろそろ退院という話が出ました。
 
私の今の夢は学校を出ないとつけない職なので、来年まで久徳さんにお世話になっても、入院費はとてもじゃないけどバイト代では払えない。ここでの「やる事はやる」という目標はのりこえられたことだし、来年の四月まで住み込みでがんばって働こうか?という事になりました。
住み込みということは、正社員ということであって、バイトの様に甘ったるい考えではつとまらないし、ヘタしたら、前の様に人と話すのも怖くなるのではないか?

今までは、悩みがあるとすぐにCWさんに泣いて訴えて、あたって…という事ができたのに、今度からは、通院という形にな るけれど、じっくり毎日のように一日あった出来事、ぐちをこぼす相手もいない。不安です。
面接が決まった日は(面接の三,四日前)面接がある日までほとんど寝れませんでした。「どうして寝れないのだろう?」と 看護婦さんに話した所、何か悩みがあるのでは?との事ですべての人からそう返事がきました。
 
悩み事といえば、その面接とここの病棟への不満でした。バイトも今はきちんとやれている自分にうかれてれていたせいか、 病棟スケジュールを守れていない他の患者さんにいらだちをおほえていました。「どうして自分はこれだけやっているのに…」 と。自分がなんだかかわいそうに思えて、病棟のスケジュールが守られていないのは、監督不行き届きののCWさんか悪いと、また面接の前であせる気持ち、動揺で感情的になってしまい、あたりぢらし、睡眠薬を多めに飲み、それでも眠れずか六日ぐら いつづき面接に突入。
 
保護者としてCWさんが付いて来て下さいましたが、その日はもう「なる様になる」で、腹がくくれてたのか冷静にというか、いつもどおりに面接を受けて、笑顔でとにかくアヒールしよう、とCWさんともリラックスするため、なるぺく遊ぴ感覚で話し合っていましたが、やっはりCWさんも人間なんですよね。自分の言葉使いで患者の道が決まるかもしれない…。となると、緊張しますよね。そのなんともいえない空気がよみとれて、CWって大変だな。ずっとあたりちらしてもここまでつくしてくれるなんて、自分だと出来ないナ…。と感動しました。
面接では、とんとんと話が進み、七月から来てくださいとの事で、無事に決まって、ひと安心です。不思議ですよね。ぐっすり寝れるんですよ。(笑)
 
その時また、ああやってしまった。寝れないのを人のせいにして、勝手にあたって、なんだかまだまだなんだな。みんなに悪 かったな。人間的にまだまだ出来たやつではないんだなって思いました。
七月に退院してそのまま住み込み先に入り働きますが、しばらくは、「つらい」「きつい」「やめたい」で久徳さんに泣きついて電話を毎日のようにかけてしまうかもしれない。でも自分はこの半年でやってこれたのだから、堂々と夢に向かっていこうと思う。
 
一番自分で成長したと思うのは、お金の大切さが分かった事だと思います。何ヶ月かバイト代で払える分だけ入院費として払ったけど、本当に働いてお金を手に入れるって大変だなと思います。母にいままで、アメリカに行くだの、オペラを見に行くだの言っては金をせびって、お金だけは頼りになる人とレッテルをはっていた自分が情けない。
そしてこんな自分を厳しくしかってくれた久徳先生方、CWの先生、看護婦さん達に心から感謝します。そして、頼って頼られて、支えあって生活していた友人、先生方にも感謝しています。そしてだれよりも母と祖母。
 
これから私が何をして何を手ばなし、手に入れ、何を思うか分からないけど、生きていれぱー人ではないと思う。だから死ぬなんてもう重いたくないし、あほらしいから、がんぱって行きたい。だから、見守ってて、これからも、必要な時は手助けしてほしいです。
不安はやはり先に立って、ため息こぼすけど、自信はあとからついてくるものだと少しづつ分かりはじめてるから、私はバカだし、あほだから理解するのに時間はかかるけど、がんばるから、がんばれるから、見守っててほしい。六ヵ月間は思いもよらず長くって、とまどった時もあったけど、いい人生勉強になりました。
有難うこざいました。